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2013年3月9日 天城接心 3.11 追悼接心に際して

道長が、横浜坐禅会 2011年3月26日(土) での法話を教材として、今回の接心にお話される予定です。

 

横浜坐禅会 2011年3月26日(土)

・・・・・・・
現象世界の両極 「 ある 」 と 「 ない 」 というこの世界
「 有心 」 と 「 無心 」 有か、無か・・・。坐中にあっての雑念妄想は、決して悪いものではない、それは思い癖なのです しかし、無心のサマーディーを得なければ、いざというときに惑わされ、浮き足だってしまう。サァ ! この震災の真っ只中にあって、その地にいるいないにかかわらず、しっかりと自分のこととして見据えねばなりません。
われわれはすでに20年、30年の、この歩みがある !! 今ここ、この力量がためされる ! 一人一人は、この無常に対するその解答を示さなければならない。天災は自分のこととして、しっかり見据え、摺り合わせていかねばなりません・・・。
道の 究極的な問い掛け、それは・・・、有であるか、無であるのか・・・。
・・・、死は終わりであるか( 断見 )、再生であるか( 常見 ) !という回答 … 輪廻転生か
あるいは無に帰するのか
我々は転迷開悟して それの回答を智らねばなりません。
今ここ 一人の統一は、天地の統一 …  一人が統一されれば、一切が浄化される …
私が、私がと 私情を挟めば天地が濁る。

………………

今日は、教科書から離れてこのたびの震災について、私たちは、そこから何を学ばねばならないのか … ということを考えていきたいと思います。

前回の坐禅会は、3月5日、震災前でしたね。

私たちはヴィヴェーカーナンダの生きる秘訣を教科書として、20年も前からこの勉強会をはじめました。
今、私達はその 理 を実践的にせねばなりません・・・、今回の震災は良いテーマです。

ヴェーダンダ哲学は決して知識人の知的な探求心を満足させるためにあるのではなく、現実的に今ここの、万人の苦よりの解脱、苦しみからの解放を解く教えです。
明治の時代に活躍した鈴木大拙先生は ー ヴェーダーンタの教えは、すべて禅宗に入った ー と言われましたが同感です、私も確かにそう思いす。
さて、我々が学んできたギャーナヨーガ、哲学的思索は、非なりの道とも申します。それは何が真実で何がそうではないかを見極める道です。いつも我々は 「 私が 」 の印象的暗闇にくらまされて、縄を蛇と見間違う … そこで、今ここ くらまされる原因である我の執着の一切を、そうではない、そうではない ! と排除していかねばなりません。
この場合、ただ闇雲に排除するのではなく、いつも正法に照らしながら、法ではないと気づいたものを未練なく排除して行くのです ( 法燈明 自灯明 )。

では、その正法とは何ぞや !
それを、ヴエーダーンタでは、「 汝はそれなり、それを見いだせ 」 と ー 仏法では「 本具仏性、一切衆生悉有佛性 」
と解く ー これが、唯一絶対なる真理、正法で、我が師はそれを ー 天地同根 万物一体
ー と申される。
しかし、真理をなぜわざわざそのように言わねばならないのか・・・
それは、ブッダのお言葉 ー 然りと云えども、顛倒妄想の故に知ること能はず ー と …
我々の日常が 「 汝はそれなり 」 であるのに、反して振る舞い、右往左往させられるからです。
事実、真理ならば、いつ何がおきても 「 絶対大丈夫 」であるはずなのです。
それが、「 それ! 」 と証明するところです。
しかしながら、私達の日常は 「 それ 」 と、あたらないでしょ、右往左往四苦八苦でしょう。
なぜ !? まずここをしっかりと問える者でなければなりません。

右往左往しながらも 「 絶対大丈夫 」 という真理の証明があるのですから・・・

そこで、あの大津波が自分の目の前に迫ってきたとき、あなたは大丈夫と受け止められますか?今ここの事実として自分に摺り合わせてください!
小浜の師匠が、ある時観音講のお話しの中で、実際に有った事故ですが、皆さん方も覚えておられると思います、高架の高速道路の上に工事用ブロックが置いてあって、その長い壁が何かの拍子に落下して、信号待ちをしていた十数台の車が運転手もろともにつぶされたという、その事故を取り上げて・・・ 老師は何とおっしゃったか・・・、「 私が下にいたならば はい!!と、その事実を受けとめました」と、こう言ったのです。 この 「 はい 」 の言葉にも続きがあって、「 はい!有難うございます」 と申されたのです。
私はその瞬間、非常に強い違和感を覚えました … が、今ではよく理解できます。


皆さん方も、まだわからないかと思いますが、いずれ分かる方となっていただけると思います。少し酷だけど、それが本当だから・・・。
それでは老師の言葉を、どのように解釈したらよいのでしょう・・・
ヴェーダーンタの教えでは、
私の身体は私ではない私のものである … 心も私ではない、私のものであると。
そこで、本当の私とは、体でもなければ、心でもない。
身体と心のその背後にある私を知ったとき その私が 「 はい !」 と言うのです。
その 「 はい 」 といえる自分を知らねばなりません。
背後の自分、これを専門用語で 「 無分別智 」 と申します。
先ほどの体と心を分けた 「 心 」 を、 「 分別知 」 と申します  分別知は損得良し悪しを分別して四苦八苦する心です。
これはある意味情報操作で、ロボット的な心情です。
それでその心を「 物質的心 」 と申します。本当の心ではないと申します
その体と心の背後に絶対的な心、純粋知性 「 無分別智、般若、智慧 」 があります。
それを指してヴェーダーンタは 「 汝はそれなり 」 と申すのです。
「 仏性 」 の言葉もそれを指した言葉です。

まず今回の震災を受けて、皆さん方は何を感じましたか?

学びを進める人、実践を行じる人は、 「 自己を学ぶ 」 ということですね。
自分を棚上げにしては何の解決も得られません。
今回の震災を機にして、如何に自分を学んだのか・・・
皆さん方、学びましたか? そして決定できましたか?・・・・
教えでは「 無分別智 」 は、すでに内在されているとされましたね。
何人の内にも、すでにそれはある、それを見いだせと、それが人類の目標であるとまで解かれてますね。
又それだからこそ、「 打撃衝撃は自己を学ぶ暗示なり 」 と心得て、「 賞賛よりも攻撃であれ 」 とヴィヴェーカーナンダは示しましたね。
この教えのもとに震災を眺めてください。
私はこの震災で、気づいたことは 、ー 何万の人たちが、あの波にさらわれた !!
そして、人だけでなく、可愛いペット達犬や猫… そして無数の虫さんたちもさらわれた・・・
五体ばらばらとなって・・・
私は震災の2日後に、天城に行きました。
天城では、カマドウマがいつものように五体ばらばらになって落ちている・・・。他の虫さんたちもゴミのように落ちている・・・
普段はそれをつまんで外に投げ捨ててしまうところだけど … 津波にさらわれた人々も、五体ばらばらになったと思いを馳せて、カマドウマの姿にその思いをかぶせた途端、この虫さんが愛おしくて …
虫さんと人間、どこが違うのか・・・と問い掛ける … 同じ生命体ではないか !!
つまんで捨てるわけにはいかない …

真諦、一元論では我々 と 虫 とを区別することを無知であるとする。  人間 、  犬   猫   虫 等は、 すべて生き物の名前です。更に、草木をも入れた植物もまた命ある 「 生命体 」 というところまで思い当たれば、自分と全ては一体である。この 「 生命体 」 のレベルで見据えていくならば、人間だけの価値観に、ひっかかることはない。死んだ虫さんをゴミ扱いにはできない …
更に、「 存在 」 のレベルまで深めると・・・どうなるか
この 「 存在 」 という見方で観るならば ( 止観 )、全宇宙を見抜く力量が生まれて、有か無か ー が解けるのです。
すなわち ー 有も無も無かったときがあった この 「 あった !! 」 純粋な知性、無分別智が輝きを放つ ー
只、存在の 「 無分別智 」 で見れば、家や車、そういったものも流された悲しみ、同じ流された存在としての同体の悲しみを受け止めて異論は無い ー
しかし、そこで又言う 「 津波 」 の波もまた同じ 「 存在 」 ではないか・・・。と

この解答は、自ら 浄心をもっぱらにして 「 私が、 私のもの 」 と固執する我がまま性を、深く慚愧の念、懺悔の念をもって消滅させていくことにより、その度合いの差に応じて明らかになってきます。

以上